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不純な動機、純粋な恋

オリジナル小説

春の雨が降っていた。
放課後の昇降口で、彼は傘を忘れたことに気づいた。

「最悪だ……」

誰に聞かせるでもなく呟いた声は、雨音にかき消される。
彼――二年生の朝倉悠真は、しばらく空を見上げていたが、やがて小さくため息をついた。
そのときだった。

「使う?」

横から差し出されたのは、紺色の折り畳み傘だった。
声の主は同じ学年の女子生徒だった。
栗色の髪を肩まで伸ばし、どこか儚げな雰囲気をまとっている。
名前は白石紗奈。
クラスは違うが、学校では有名だった。
成績優秀。
容姿端麗。
教師からの信頼も厚い。

「いや、でも君が困るだろ」

「私は駅まで近いから」

そう言って微笑む。
悠真は少し迷ったが、結局その傘を受け取った。

「じゃあ明日返す」

「うん」

それが二人の最初の会話だった。
そして悠真は、そのとき既に打算を抱いていた。
翌月に控えた奨学金選抜試験。
家庭の事情で大学進学を諦めたくなかった彼にとって、それは人生を左右するものだった。
しかし学年首位を争う成績を持つ白石紗奈は、過去の試験傾向や教師の評価基準にも詳しいと噂されていた。
仲良くなれれば有利になる。
ただ、それだけだった。
翌日。
傘を返したあと、彼は自然を装って話しかけた。

「白石さんって、いつも図書室にいるよね」

「よく見てるね」

「偶然だよ」

嘘だった。
数日前から観察していた。
彼女がどこで昼食を取るのか。
誰と話すのか。
どんな本を読むのか。
距離を縮めるための情報収集だった。
自分でも嫌になるほど計算高いと思った。
だが、進学のためなら仕方がない。
そう自分に言い聞かせた。
それから数週間。
二人は少しずつ会話を重ねた。
図書室。
中庭。
帰り道。
紗奈は話し上手ではなかったが、聞き上手だった。
悠真の何気ない愚痴にも真剣に耳を傾ける。

「朝倉くんって、意外と心配性なんだね」

ある日そう言われた。

「そう見える?」

「見える」

「初めて言われた」

「じゃあ私が第一号」

彼女は少し得意げに笑った。
その笑顔を見た瞬間、悠真は妙な感覚を覚えた。
胸の奥がわずかに揺れた気がした。
だがすぐに首を振る。
違う。
これは目的のためだ。
ただの手段だ。
そう思った。
しかし人の心は、思い通りにはならない。
六月。
試験勉強が本格化する頃。
紗奈が学校を休んだ。
一日、二日、三日――。
担任は「体調不良」とだけ説明した。
悠真は気になった。
最初は情報源が減るからだと思っていた。
だが違った。
気づけば何度もスマートフォンを見ていた。
連絡先を交換していたにもかかわらず、メッセージを送る勇気が出なかった。
四日目の夜。
ようやく短い文章を送った。

『大丈夫?』

数分後。
返信が来た。

『ありがとう』

それだけだった。
だが少し安心した。
翌週、紗奈は学校へ戻ってきた。
以前より痩せて見えた。
顔色も悪い。

「無理してない?」

昼休み、悠真が尋ねる。

「平気」

「平気そうに見えない」

「みんなそう言う」

彼女は苦笑した。
その笑顔がどこか寂しそうで、悠真はそれ以上聞けなかった。
夏休み前日。
試験結果が発表された。
悠真は選抜に通過した。
目標だった順位も獲得できた。
大きな壁を越えた達成感。
だが不思議なことに、真っ先に思い浮かんだのは紗奈だった。
放課後、彼は彼女を探した。
校舎裏のベンチで見つける。

「受かったよ」

「知ってる」

「ありがとう」

「私、何もしてない」

「そんなことない」

本当にそう思った。
最初は利用するつもりだった。
でも今は違う。
彼女と話した時間。
励まされた言葉。
一緒に過ごした日々。
それらが自分を支えていた。

「白石さん」

「なに?」

「俺さ――」

好きだ。
そう言おうとした。
だが言葉は最後まで続かなかった。
紗奈が小さく咳き込んだからだ。
白いハンカチで口元を押さえる。
一瞬だけ見えた。
赤い染み。
血だった。
悠真の心臓が凍りつく。
紗奈は慌ててハンカチを隠した。

「見なかったことにして」

「今の……」

「お願い」

その声は震えていた。
初めてだった。
いつも穏やかな彼女が、こんな表情を見せたのは。

「何か病気なのか?」

沈黙。
風だけが吹いていた。
長い沈黙のあと、紗奈は静かに言った。

「内緒にしてくれる?」

悠真は頷いた。
そして彼女は微笑んだ。
どこか諦めたような笑顔で。

「私ね」

その言葉の続きが、二人の運命を大きく変えることになる。
雨上がりの空は、どこまでも青かった。
けれど悠真には、その青さが妙に遠く見えた。

「私ね」

紗奈は静かに空を見上げた。
夕焼けが校舎の窓を赤く染めている。

「長くないんだ」

悠真は言葉を失った。
冗談には聞こえなかった。
彼女の横顔はあまりにも真剣だった。

「病気なの?」

紗奈は頷く。

「心臓」

それだけで十分だった。
詳しい病名はわからない。
だが、それが軽いものではないことだけは理解できた。

「手術は?」

「何度もしたよ」

「治るんじゃ……」

「お医者さんは頑張ってくれてる。でもね」

彼女は少しだけ笑った。

「未来を約束できる病気じゃないんだって」

夏の風が吹く。
蝉の声が遠くで鳴いていた。
世界は何も変わらないのに、悠真の中だけが大きく揺れていた。
その日から、彼は自分の打算を心底嫌悪した。
最初は利用するつもりだった。
近づいた理由も、自分のためだった。
なのに彼女は何も知らず、優しく接してくれた。
そんな相手が、今も命を削って生きている。

「最低だな……」

帰宅後、何度も呟いた。
しかし翌朝、紗奈はいつも通り笑っていた。

「そんな顔しないで」

「無理だろ」

「みんな同じ顔するんだよね」

彼女は苦笑する。

「だから言いたくなかった」

「どうして」

「かわいそうな人になるから」

その言葉に悠真は返せなかった。
確かに昨日から彼は彼女を病人として見ていた。
それが悔しかった。
夏休み。
二人は何度も会った。
図書館。
公園。
駅前の喫茶店。
特別なことはしない。
ただ話をした。
進路のこと。
好きな本のこと。
将来やってみたいこと。
何気ない会話ばかりだった。
ある日、海へ行った。
泳ぐためではない。
砂浜を歩くだけだった。
紗奈の体力では長時間の運動が難しいからだ。
波打ち際で立ち止まりながら彼女が言う。

「私ね、海を見るの好き」

「なんで?」

「終わりが見えないから」

少し考えてから続ける。

「未来みたいでしょ」

悠真は隣を見た。
風に髪を揺らしながら微笑む彼女。
その横顔を見ているだけで胸が痛くなる。
失いたくない。
初めてそう思った。
そして同時に気づく。
もう好きだった。
とっくに。
夏休みの終わり。
夕暮れの公園で、彼は決意した。

「白石さん」

「うん?」

「好きだ」

紗奈は驚いた顔をした。
数秒間、何も言わない。
やがて困ったように笑った。

「ずるいなあ」

「ずるい?」

「今それ言われたら嬉しいじゃん」

目が少し潤んでいる。

「返事は?」

悠真は尋ねた。
紗奈はしばらく黙っていた。
そして小さく首を振る。

「できない」

胸が締めつけられる。
だが彼女は続けた。

「だって私は先にいなくなるかもしれない」

「そんなの関係ない」

「あるよ」

声が震えていた。

「残される人は苦しいもん」

「勝手に決めるなよ」

初めて強い口調になった。
紗奈が目を見開く。

「俺は苦しくてもいい」

「よくない」

「それでも好きなんだ」

夕陽が沈む。
長い沈黙のあと。
彼女は泣きながら笑った。

「本当に馬鹿だね」

「知ってる」

「後悔するよ」

「しない」

紗奈は涙を拭った。
そして小さく頷いた。

「じゃあ」

その声はかすれていた。

「よろしくね」

その瞬間。
二人は恋人になった。
幸せな時間は短かった。
秋が終わる頃。
紗奈の入院が決まった。
状態が悪化していた。
病室で会うたびに彼女は痩せていく。
それでも笑顔だけは消えなかった。

「文化祭行きたかったな」

「来年行こう」

「うん」

嘘だとわかっている約束だった。
それでも二人とも否定しなかった。
冬。
雪の降る夜だった。
悠真のスマートフォンが鳴る。
病院からだった。
胸騒ぎがした。
急いで病院へ向かう。
病室の前には両親と医師が立っていた。
誰も何も言わない。
その沈黙だけで理解してしまった。
足が動かなくなる。
世界から音が消えた。
病室は静かだった。
紗奈は眠るように横たわっていた。
苦しそうな表情ではなかった。
むしろ穏やかだった。
彼は椅子に座る。
何時間そうしていたかわからない。
やがて看護師が一通の封筒を渡した。

「預かっていました」

震える手で開く。
中には手紙があった。
見慣れた文字。
涙で滲みながら読み進める。

『朝倉くんへ』

『これを読んでいるということは、たぶん私はもう隣にいません』
『泣いてるかな』
『泣いててもいいです』
『でも、ずっと泣かないでください』
『私はあなたと出会えて幸せでした』
『最初は優しい人だと思っていました』
『でも違いました』
『不器用で、意地っ張りで、たまに嘘が下手で』
『それでも誰より優しい人でした』

悠真は首を振る。
違う。
そんな人間ではない。
本当は打算から近づいた。
自分勝手だった。
すると次の一文が目に入った。

『あとね』
『最初に近づいた理由が別にあったこと、実は気づいていました』

息が止まった。
文字が滲む。

『図書室で私を観察してたの、わかりやすかったから』
『だから最初は少し警戒してました』
『でも途中から変わったでしょう?』
『私にはわかりました』

涙が落ちる。
止まらない。

『人は最初の理由だけでは決まらないと思います』
『だから私は嬉しかった』
『好きになってくれてありがとう』
『私もあなたが好きでした』
『さようならじゃなくて』
『またね』

手紙はそこで終わっていた。
数年後。
大学へ進学した悠真は、ある春の日に海を訪れた。
あの日二人で歩いた砂浜だった。
風が吹く。
波が寄せては返す。
終わりのない景色。
未来みたいだと彼女は言った。
悠真は空を見上げる。
青空が広がっていた。
涙はもう流れなかった。
それでも時々思い出す。
打算から始まった出会い。
本物になった恋。
短くて、どうしようもなく大切だった季節。

「またな」

誰もいない海へ向かって呟く。
風がその言葉をさらっていく。
そしてどこか遠くで、彼女の笑い声が聞こえた気がした。

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オリジナル小説不純な動機、純粋な恋【完結】
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