遠くで軽音部の演奏が聞こえる。呼び込みの声。大勢のざわめきと、足音。
「はいはーい、二年二組『ハンドソープランド』、もうすぐ開店でーす! そこの君、手ぇ洗ってかない?」
我ながら、なんて出し物を宣伝してんだろ。
ハンドソープランド。
女子が、ハンドソープで、お客さんの手を、にゅるにゅる、ていねいに洗ってあげる。
ただ、それだけのお店。
朝の廊下は、もう人でぱんぱん。
たこ焼きの匂い、綿あめの甘い匂い、遠くの体育館から響く演奏。
窓の外の空は、うざいくらいの快晴。
一年でいちばん、学校がバカ騒ぎしていい日。
ウチ、こういうのマジで大好き。
学園祭は、ウチのための日、みたいなもん。
朝から気合い入れてキメて、模擬店を食べ歩いて、後夜祭で騒いで。
去年のミスコンなんか、二位。ほんとは一位、狙ってたんだけど。
とにかく、目立ってなんぼ。楽しんでなんぼ。
ウチは、そういう女。
――そもそも、なんでこうなったか。
出し物を決める学級会。だれてきた教室で、ギャル友のひとりが、にやにやしながら言い出した。
ソープランドやろーぜ。手のな。手ぇ洗うだけの、健全なやつ。
女子が泡でにゅるにゅる、手を洗ってくれる。名付けて、ハンドソープランド。
教室が、どっと沸いた。
まじうける、それやろ、ぜってーバズる。あっという間に決定。
で。
その勢いのまま、ウチは、手を挙げてた。
「はいはーい、じゃあ看板娘、ウチがやったげる。こういうの、慣れてるし。ウチがやりゃ、行列できるっしょ?」
教室が、また沸いた。
さすがなぎさ、話わかる、頼んだーって。
ウチ、こういうノリの中心にいるの、得意なんだよね。
コミュ力おばけって、よく言われるし。
だいたい、ウチのクラスの出し物、去年も一昨年も、まじでバズった。
仕切ってたの、ぜんぶウチ。
飾りつけの色も、カウンターの置き場所も、順番待ちの導線も。
昨日の設営なんて、みんなが帰ったあとまで残って、ぜんぶウチが決めた。
だって、こういうのウチの得意分野だから。
盛り上げて、目立って、かわいく、キメる。
それが、白浜なぎさ。
看板娘くらい、朝飯前。
――そう、思ってたんだよ。ついさっきまで。
……でも。
ほんとはさ。
手を挙げた瞬間から、心臓、ちょっとだけ変な音してた。
だって。
男子の手を、握って、洗う。
そんなの、ウチ――やったこと、ない。
ていうか。
男の子と、そういうふうに触れ合ったこと、そもそも、一回もない。
「……い、いや、余裕っしょ。手洗うだけじゃん。ウチが緊張とか、ありえないし。……ありえない、し」
そう。ありえない。
ウチは、白浜なぎさ。
クラスいちのギャルで、なんでもこなせる、最強の女。
手を洗うくらいで、緊張なんか、するわけ――
教室のドアを、からり、と開けた。
中は水音の反響する、少しこもった空気。
見慣れた二年二組は、すっかり様変わりしてた。
窓には、ピンクと水色のギラギラした飾りつけ。ウチがコーデした。
ずらっと並んだポンプ式のハンドソープ。透明、乳白色、桜の香り、レモンの香り。
お湯をためた洗面器がいくつも。ふかふかのタオル、山積み。
そして、教室を横切る、長いカウンター。
このカウンターの内側に、ウチが立つ。
外側に、お客さんが座る。
差し出された手を、ウチが、洗う。
鏡を見る。
白いエプロンを着けた、ウチ。
腕まくりした、ウチ。
ロングの毛先も、メイクも、ばっちりキマってる。
「……うん、盛れてる。かわよ。余裕じゃん。……いける、いける」
なのに。
ポンプに伸ばした指先が、ちょっとだけ震えてるの。
……見なかったことに、しとこ。
ほんとはさ。
昨日の夜、家でこっそり練習したんだよね。
自分の左手を、右手で洗って。
指の股、手首、って順番に。
鏡の前で、営業スマイルまで、作って。
……我ながら、なにやってんだって、感じ。
でも、それくらい、気合い入れてきたの。
ぜったい、余裕でこなすって。ウチ、決めてきたんだから。
ポンプを、一回押してみる。
てのひらに、ぷにゅ、と冷たいジェルが落ちる。
両手をこすり合わせると――しゅわ、と白い泡が立った。
指の間で、にゅる、ぬる、と、泡がすべる。
ぬちゅ、くちゅ、と、粘りのある水音が、指のあいだで鳴った。
……なにこれ。
たったこれだけの音で。
指の間をすべる、この感触で。
なんか、耳の裏が、ちょっと熱い。
「う、うわ、なにこれ、やば。……ちが、なんでもない。ただの泡じゃん。ただの、手洗い……っ」
蛇口をひねる。
温かいお湯が、泡を流してく。
指先が、つるつるになる。
すべすべの自分の手を、ウチはしばらくじっと見てた。
……この手で。
これから、知らない男子の手を、洗うんだ。
指の股まで。手首まで。ていねいに。
そう思ったら、心臓が、どくん、ってマジでうるさく鳴った。
……だめだ。落ち着け、ウチ。
胸に手ぇ当てて、深呼吸。
すう、はあ。すう、はあ。
鏡の中のウチに、もう一回、言い聞かせる。
ウチはギャルで、看板娘で、余裕の女。
やることは、手を洗うだけ。にゅるにゅる、ていねいに。それだけ。
男子の手とか、指の股とか、いちいち意識してるほうが、ばか。
……うん。ばか。
なのに。そう思えば思うほど、なんでか、耳の裏が、また熱くなってく。
廊下から、呼び込みの声が近づいてくる。
開場の、チャイム。
廊下の人の流れが、ぐっと増える。
ギャル友が、看板を掲げて、大声で呼び込みを始めた。
さあいらっしゃい、ウチのクラスの看板娘、マジかわいーよって。
そのまま、ウチのこと、指さして叫ぶ。
ウチのクラスの看板娘、白浜なぎさでーす! 超かわいーから、みんな並んでー!
わっ、て、廊下がざわついた。
何人かの男子が、こっち見て、ひそひそ。
かわいい、とか。あの子ギャルじゃん、とか。
……うん。慣れてる。視線には、慣れてる。
だから、ウチは、いつもの営業スマイルで、手ぇ振って応える。
余裕たっぷりに。かわいく。
――カウンターの下で、その手の指先が、冷たくなってるのは。だれにも、見せない。
……もう、逃げらんない。
やるって言ったの、ウチだし。
やるからには、かわいく、余裕で、キメる。
それが、白浜なぎさ、だから。
エプロンの裾をぎゅっと握る。
深呼吸、ひとつ。
そして、ウチは、営業用のギャルスマイルを、貼りつけた。
「……い、いらっしゃいませー! ハンドソープランドへ、ようこそっ。手ぇ……洗って、いきませんか?」
こうして。
ウチの、まじで長い一日が――始まった。
教室に、こもったざわめきが満ちてる。
カウンターの前で、がた、と椅子を引く音がした。
最初のお客さんが来た。
ウチの学校の男子。
どっかで見たことある。同じ学年の、たしか、隣のクラスの子。
ギャル友に背中を押されて、おそるおそるカウンターの前の椅子に座った。
ウチと、目が合う。
向こうも、真っ赤。
ウチも……たぶん、真っ赤。
「いらっしゃーい♪ えっと、お客さん、そこ座って。ウチが手ぇ、洗ったげるね。……ほら、遠慮しないで、手ぇ出して?」
彼は、こくりと頷いて。
おずおずと、右手をカウンターの上に差し出した。
――男の子の、手。
ウチのより、ずっと大きくて。
節が太くて、指が長くて。
血管、浮いてて。
……なんか、見てるだけで、落ち着かない。
「……じゃ、失礼しまーす。あ、お湯、熱くない?」
温かいお湯を張った洗面器に、彼の手を、そっと沈める。
指先から、手首まで。
くたっと力の抜けた、大きな手。
それを、ウチの両手で、下から支える。
……あ。
やば。
男子の手、握っちゃった。
ウチ、これ、はじめて――
心臓が、口から出そう。
男子の手を、こんな、まじまじ、間近で見たの、はじめて。
指の一本一本が、ウチのより、ずっとごつごつしてて。
爪も、大きくて。
手のひらの真ん中に、ペンだこみたいなの、あって。
……なんか、生きてる、って感じ。
ちょっと汗ばんでて、あったかくて。
ウチの手のなかで、その手が緊張してるのが、伝わってくる。
……あ。この人も、緊張、してるんだ。
そう思ったら、ほんのちょっとだけ、ウチの肩の力も、抜けた。
――ほんのちょっと、だけ。
しゅこ、とポンプの音。
ハンドソープを、ワンプッシュ。
桜の香りの、乳白色。
ウチのてのひらでくるくる泡立てて。
それを、彼の手の甲にのせる。
そして。
両手で、包むように、洗い始めた。
にゅる。
ぬる。
くちゅ。
泡のぬめる水音が、控えめに、ずっと、教室に響いてる。
……っ。
なにこれ。
なにこれ、なにこれ。
泡のせいで、彼の手が、すべる。
指と指の間を、ウチの指が、するっと通る。
手の甲を、円を描いて、撫でる。
手首の、骨の出っぱったとこを、親指で、くるり。
「て、手の甲から……手首、をぉ……こう、ぐるっと、して。……で、指の、あいだ、を……ぁ」
指の股に、ウチの指を差し込む。
にゅ、と泡が押し出される。
その瞬間。
彼の手が、ウチの手のなかで、びくっ、と跳ねた。
「……っ、ご、ごめっ、くすぐったかった!?」
彼は、首をぶんぶん横に振って。
違う、そうじゃない、みたいな顔で、耳まで真っ赤にして、うつむいた。
……なんなの、この空気。
くすぐったいのは、わかる。
でも。
やばいのは……ウチのほう、なんだけど。
だって。
男子の手、こんなにゆっくり、握ってる。
指を、一本ずつ、根元から先まで、しごくみたいに洗ってる。
泡ですべる、太い指を。
にゅる、ぬる、って。
「て、手洗いだから。ただの。ていねいに洗うのが、看板娘のお仕事だし。べ、べつに、深い意味とか、ないから……っ、うわ、なにこれ」
ないはずなのに。
指の一本を、根元から、つるん、と抜くみたいに撫で上げるたび。
彼の指先が、ウチのてのひらの上で、きゅっと丸まるたび。
ウチの、おなかの奥が、なんか、そわそわ、する。
……マジで、なんで。
洗ってあげてんの、ウチのほうなのに。
なんで、ウチのほうが、こんな、心臓ばくばく、なわけ。
指の股に泡を送り込むたび。
彼の手が、ウチの手のなかで、ぴくって反応する。
その、ちいさな反応のいちいちに。
ウチの心臓が、いちいち、跳ねる。
洗ってるのは、ウチなのに。
主導権、握ってるのは、ウチのはずなのに。
彼の指先ひとつに、こんな振り回されて。
……なにこれ。逆じゃん。ぜんぜん、逆。
泡でぬめる、この手を、離せば、楽になれるのに。
なのに、ウチの手は、離すどころか。
もっとていねいに、彼の指を、包んでる。
「は、はいっ、じゃあ泡ぁ、流すね〜。……はぁ、はぁ。……よ、余裕、余裕」
温かいお湯を、手のひらですくって、彼の手にかける。
白い泡が、するする、流れてく。
指の間から、手首から、泡が消えて。
あとに残ったのは、つるつるの、彼の手。
最後に。
ふかふかのタオルで、一本ずつ、指を、そっと拭いてあげる。
包むように。
なんか、大事なもの、みたいに。
「……はい、きれいになった。……おつかれさま。えへ」
彼は、自分の手のひらを、まじまじと見て。
それから、ウチを見て。
なにか言いたそうに口を開いて――でも、言葉にならなくて。
ありがとう、とだけ、ぼそっと残して。
逃げるみたいに、立ち上がった。
「……ま、また来てね〜っ」
ドアの向こうに、彼の背中が消える。
ウチは、まだ温かい、自分の手のひらを、見下ろした。
桜の香りが、指に残ってる。
彼の手の大きさの感触も、まだ、残ってる。
「……うそでしょ。手ぇ、洗っただけじゃん。……なのに、なにこれ」
胸が、まだばくばく鳴ってる。
一人目で、もう、これ。
最強の看板娘、どこ行った。
「……ぜんっぜん、余裕じゃないし。……やばいって、ウチ」
ウチ、ずっと、ギャルの顔して。
恋愛も、男子も、なんか、慣れてる風で。
でも、ほんとは。
こんな、手ぇ洗うだけで、心臓こわれそうになるくらい――初心(うぶ)、なんだ。
ウチ、今日まで、ずっと、勘違いしてた。
ギャルやってれば、恋愛とか、男子とか。
なんとなく、こなせるもんだ、って。
最強の自分でいれば、そのうち、慣れるもんだ、って。
……ちがった。
中身は、こんな。手ぇ洗うだけで、いっぱいいっぱいの、ウチ。
背伸びした鎧の下は、からっぽの初心なウチ。
それが、たった一人の男子の手で、あっさり、バレちゃった。
カウンターの外で、また椅子を引く音。次のお客さんの気配。
「……っ、は、はいはーい! 次の方どうぞー! ハンドソープランド、絶賛営業中でーす♪」
まだ、始まったばっか。
にゅるにゅるの長い一日は――まだ、始まったばっかり、だった。


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