大学二年生の吉澤悠斗は、自分の人生にドラマなど必要ないと思っていた。
朝はギリギリまで寝て、講義に滑り込み、友人と適当にだべり、単位を落とさない程度に勉強する。
そんな平凡な大学生活を送るはずだった。
少なくとも、その日の朝までは。
「やばっ、遅刻だ!」
目覚ましを三度も止めていたことに気づいた悠斗は、ベッドから飛び起きた。
顔を洗い、適当に髪を整え、食パンを口にくわえながらアパートを飛び出す。
春の風は心地よかったが、そんな余裕はない。
大学まであと五分。
全力疾走でキャンパスへ向かっていたその時だった。
正面から一人の女子学生が走ってきた。
しかもこちらも完全に遅刻寸前らしい。
「うわっ!」
「きゃっ!」
見事な正面衝突だった。
二人は派手に転がる。
食パンは宙を舞い、女子学生の鞄からはノートやペンが散乱した。
「いてて……」
悠斗が顔を上げる。
目の前には長い黒髪の美少女がいた。
整った顔立ち。
白い肌。
ぱっちりした目。
モデルのようなスタイル。
だが。
「…………」
「…………」
春風が吹いた。
ふわり、と。
彼女の短めのスカートがめくれ上がる。
悠斗の視界に飛び込んできたのは、淡い水色のパンツだった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬。
だが見えた。
確実に見えた。
「見るなぁぁぁぁぁっ!!」
「ぐはぁっ!」
鋭いハイキックが悠斗の顎を直撃した。
大学の正門前で。
朝の人通りが最も多い時間帯に。
悠斗は吹っ飛んだ。
「なんで俺が!?」
「見たでしょ!?」
「事故だろ!?」
「見たでしょ!?」
「はい!」
「素直に認めるな!」
理不尽だった。
だが否定できない。
見てしまったものは見てしまったのだ。
女子学生は顔を真っ赤にして睨んでいる。
「最低!」
「俺が!?」
「変態!」
「だから事故だって!」
「最低!」
語彙が減っていた。
よほど恥ずかしいらしい。
結局、二人は散らばった荷物を拾い集めることになった。
その最中。
悠斗は彼女の学生証を見つける。
そこには名前が書かれていた。
一ノ瀬美月。
経済学部一年。
つまり後輩だった。
「はい、学生証。」
「……ありがとう。」
美月は少しだけ気まずそうに受け取る。
さっきまで怒鳴っていた勢いはどこかへ消えていた。
「その……ごめんなさい。」
「ん?」
「蹴ったこと。」
「見たことに対して怒るんじゃなくて?」
「だって見たでしょ。」
「またそこに戻るのか。」
美月はぷいっと顔を背けた。
だが耳まで真っ赤だった。
怒っているというより、単純に恥ずかしいのだろう。
「まあ、事故だったのは分かってる。」
「ありがとう。」
「でも忘れて。」
「努力はする。」
「今すぐ忘れて!」
そんなやり取りをしているうちに講義開始時間が近づいた。
二人は慌ててそれぞれの教室へ向かった。
この時はまだ知らなかった。
この出会いが、平凡だった大学生活を大きく変えることになるなんて。
…
……
………
数日後。
悠斗は大学の食堂で友人の佐伯健太と昼食を食べていた。
「へぇー。美少女に蹴られたのか。」
「言い方。」
「しかもパンチラ付き。」
「言い方ぁ!」
健太は爆笑している。
親友ながら腹が立つ。
「それで、その子と再会した?」
「してない。」
「残念。」
「別に残念じゃない。」
そう言った瞬間だった。
「あ。」
聞き覚えのある声。
振り向く。
そこにはトレーを持った美月が立っていた。
目が合う。
沈黙。
三秒、五秒、そして――。
「げっ。」
「げっ、とはなんだ。」
「変態先輩。」
「誰が変態先輩だ。」
「パンをくわえながら突っ込んできた人。」
「そこは否定できない。」
健太が肩を震わせている。
笑いを堪えているらしい。
「お前、知り合い?」
「事故。」
「事故。」
声が揃った。
さらに沈黙。
そしてなぜか美月は悠斗たちの向かいの席に座った。
「なんで?」
「席が空いてないから。」
周囲を見る。
確かに昼時で混雑している。
だが。
他にも席はある。
絶対にある。
「先輩。」
「なんだ。」
「まだ覚えてる?」
「何を。」
「見たやつ。」
「忘れろと言ったのお前だろ!?」
食堂中の視線が集まった。
悠斗は頭を抱えた。
美月は満足そうに笑う。
初めて見る笑顔だった。
からかうのが楽しいらしい。
しかもかなり。
「ふふっ。」
「お前なぁ。」
「先輩の反応面白い。」
「性格悪くない?」
「よく言われる。」
悪びれる様子は全くない。
だが。
笑った彼女は驚くほど可愛かった。
思わず見惚れてしまうほどに。
すると美月が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや。」
「また変なこと考えてる?」
「考えてない。」
「怪しい。」
そう言いながらも、彼女はどこか楽しそうだった。
悠斗はまだ気づいていなかった。
この後輩が、自分の日常をめちゃくちゃに引っかき回す存在になることを。
そして。
からかい合いから始まった関係が、少しずつ特別なものへ変わっていくことを。
…
……
………
五月も終わりに近づき、大学は少しずつ学園祭ムードに包まれ始めていた。
講義棟の廊下にはサークル勧誘のポスターが並び、広場では出店の打ち合わせが行われている。
そんな中、悠斗は学生会室へ呼び出されていた。
「どうして俺が手伝うことになったんだ……」
大きな段ボール箱を抱えながらため息をつく。
人手不足だから。
ただそれだけの理由で駆り出されたのである。
そして。
「先輩、手が止まってますよー。」
目の前には一ノ瀬美月がいた。
なぜか彼女も同じ仕事に参加している。
「お前もいたのか。」
「失礼ですね。」
「いや、最近遭遇率高すぎないか?」
「それは私も思ってました。」
美月はくすりと笑う。
最初の頃の険悪な雰囲気はもうほとんど残っていなかった。
相変わらずからかわれることは多いが、それも以前ほど嫌ではない。
むしろ。
こうして話している時間が少し楽しくなっている自分に、悠斗は気づき始めていた。
「この資料、二階の倉庫に運べばいいんですよね?」
「そうらしいな。」
「じゃあ行きましょう。」
二人は大量の資料を抱えて階段へ向かった。
古い校舎の階段は少し急だった。
しかも美月はかなりの量を抱えている。
「おい、大丈夫か?」
「平気ですって。」
「絶対重いだろ。」
「これくらい余裕――」
その瞬間だった。
階段の踊り場で。
美月の足がわずかに滑った。
「あっ。」
本人も予想していなかったらしい。
身体のバランスが崩れる。
抱えていた資料が宙を舞う。
そして。
「きゃあっ!?」
派手に転倒した。
大量の紙が雪のように散らばる。
さらに運の悪いことに、その勢いでスカートの裾まで大きくめくれ上がってしまった。
ほんの一瞬。
だが豪快だった。
本人が状況を理解するより先に。
悠斗の視界には、ピンクのチェック柄のインナーが飛び込んできていた。
「…………」
「…………」
数秒の静寂。
美月の顔がみるみる赤くなる。
耳まで真っ赤になる。
そして。
「忘れてください。」
異様に冷静な声だった。
「努力する。」
「今すぐ。」
「無理だろ。」
「無理じゃないです!」
「いや、そんなこと言われても!」
美月は両手でスカートを押さえながらうずくまった。
恥ずかしさの限界らしい。
「なんでこうなるんですか……。」
「怪我してないか?」
「してません……。」
「ならよかった。」
「よくありません。」
「それはそう。」
美月は恨めしそうに悠斗を見る。
しかし怒っているというより、純粋に気まずいだけだった。
最初に出会った頃なら蹴りが飛んできただろう。
だが今回は違った。
「……先輩。」
「ん?」
「笑わないんですね。」
「転んだ人間見て笑うほど性格悪くない。」
「意外です。」
「おい。」
「もっと最低な人かと思ってました。」
「まだそんな評価だったのか。」
美月は少しだけ吹き出した。
悠斗もつられて笑う。
すると先ほどまでの気まずさが少しだけ消えた。
散らばった資料を二人で拾い集める。
その最中だった。
「先輩。」
「なんだ。」
「この前から思ってたんですけど。」
「うん。」
「先輩って意外と優しいですよね。」
悠斗の手が止まる。
思わぬ言葉だった。
「急にどうした。」
「別に。」
美月は資料を抱えながら視線を逸らした。
だが少し照れているようにも見える。
窓から差し込む午後の日差しが彼女の横顔を照らしていた。
その姿が妙に綺麗で。
悠斗は思わず見入ってしまう。
「……先輩?」
「いや。」
「また変なこと考えてます?」
「考えてない。」
「怪しい。」
いつものやり取り。
けれど。
以前とは何かが違っていた。
ただの先輩後輩ではない。
友達とも少し違う。
その曖昧な距離感が、二人の間に生まれ始めていた。
資料を運び終えた帰り道。
夕焼けに染まるキャンパスを並んで歩く。
不意に美月が足を止めた。
「先輩。」
「ん?」
「学園祭の日。」
「うん。」
「よかったら一緒に回りませんか?」
悠斗は思わず目を瞬かせた。
美月も少し緊張した顔をしている。
だが次の瞬間にはいつもの笑みを浮かべた。
「もちろん、変な意味じゃないですよ?」
「その言い方が一番怪しい。」
「ふふっ。」
夕暮れの風が吹く。
長い黒髪が揺れた。
悠斗の胸は少しだけ高鳴っていた。
学園祭まで、あと二週間。
二人の距離は、少しずつ確実に近づいていた。


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