春の朝は穏やかなはずだった。
少なくとも、俺――相沢悠真はそう信じていた。
だが、その平穏は玄関のドアが勢いよく開いた瞬間に吹き飛ぶ。
「悠真ー! 遅刻するよ!」
聞き慣れた声と共に飛び込んできたのは、幼馴染の朝比奈美咲だった。
美咲とは家が隣同士で、物心がついた頃からの付き合いだ。大学こそ違うが、最寄り駅が同じため、こうして毎朝のように顔を合わせている。
「いや、まだ十分余裕あるだろ」
「ないよ! 電車一本逃したら大変なんだから!」
そう言いながら彼女は俺の部屋へずかずか入り込み、机の上にあった財布を放り投げる。
「ほら、これ忘れてる」
「なんでお前が俺の部屋を把握してるんだよ……」
「十年以上出入りしてるから」
反論できなかった。
俺が観念して立ち上がると、美咲は満足そうに頷く。
「よし、出発!」
「はいはい」
二人で家を出る。
昔から変わらない光景だ。
ただ、一つだけ変わったことがある。
幼馴染だったはずの美咲が、最近やたらと可愛く見えることだった。
肩まで伸びた黒髪。
よく笑う表情。
そして無防備な距離感。
本人にその自覚がないのが厄介だった。
「何?」
「いや、別に」
「変なの」
首を傾げる美咲に慌てて視線を逸らす。
そんな俺の動揺など知らず、彼女は先へ歩いていく。
そして次の瞬間だった。
「きゃっ!?」
歩道の小さな段差につまずき、美咲の身体が前へ傾く。
「おっと!」
慌てて腕を掴む。
転倒は防げた。
だが、その拍子にスカートの裾がふわりと舞い上がる。
「……」
「……」
一瞬だけ沈黙が流れた。
美咲の顔がみるみる赤くなる。
「み、見た?」
「事故だ!」
「聞いてない!」
「いやだから事故だって!」
「忘れて!」
「努力する!」
「今すぐ忘れて!」
朝から大騒ぎだった。
通行人が何事かと振り返る。
俺は深いため息をついた。
「お前、本当に昔から変わらないな」
「何それ」
「ドジなところ」
「うるさい」
ぷくっと頬を膨らませる。
その仕草が妙に可愛くて困る。
駅へ向かう途中も、美咲はずっと不機嫌そうだった。
だが改札前に着いた頃には機嫌が直っている。
「そうだ。今度の日曜日ヒマ?」
「急だな」
「商店街の抽選会で遊園地のチケット当たったんだ」
「へえ」
「二枚」
「へえ」
「だから一緒に行こう」
自然な誘いだった。
昔なら何も考えず了承していただろう。
だが今は違う。
それがデートに聞こえてしまう。
「嫌なら別にいいけど」
「いや、行く」
「即答じゃん」
美咲は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
やっぱり俺は。
かなり前から。
幼馴染としてじゃなく、美咲のことが好きなのかもしれない。
けれど、その想いを口にする勇気はまだなかった。
もし関係が変わってしまったら。
もし今の距離感が壊れてしまったら。
そう考えると踏み出せない。
「じゃあ日曜日ね!」
「分かった」
電車がホームへ滑り込む。
美咲は乗り込む直前、こちらを振り返った。
「絶対寝坊しないでよ?」
「子供じゃないんだから」
「信用できない」
「失礼な」
「だって去年――」
「その話はやめろ!」
また笑い声が響く。
春の風が吹き抜ける。
幼馴染とのいつもの日常。
だが、この日曜日を境に、その関係は少しずつ変わり始めることになる。
…
……
………
日曜日の朝。
約束の時間より十分早く起きた俺は、自分でも驚いていた。
普段なら目覚ましを三回は止める。
だが今日は違う。
理由は考えるまでもない。
美咲との遊園地だ。
幼馴染とのお出かけ。
それだけのはずなのに、どうしてもデートという言葉が頭をよぎる。
身支度を整えて家を出ると、すでに美咲が待っていた。
「珍しい」
俺を見るなり彼女は目を丸くした。
「何が」
「悠真が待ち合わせ時間より先に来てる」
「そんなに信用ないのか」
「ない」
即答だった。
思わず苦笑する。
だが今日の美咲は、それ以上に俺の意識を持っていった。
淡い色のブラウスに短めのスカート。
普段より少しだけ大人っぽい服装だった。
「どうしたの?」
「いや」
「変?」
「似合ってる」
口から自然に出ていた。
すると美咲が一瞬固まる。
そして耳まで赤くなった。
「そ、そう」
「本当に」
「……ありがと」
それだけ言って視線を逸らす。
なんだか俺まで照れてしまった。
遊園地へ向かう電車の中でも、どこかぎこちない空気が続く。
しかし入園してしまえばそんな緊張もすぐに消えた。
ジェットコースターで叫び。
お化け屋敷で美咲が俺の腕にしがみつき。
観覧車から景色を眺める。
気がつけば昼になっていた。
「疲れたー」
ベンチへ腰掛けた美咲が大きく伸びをする。
その瞬間、強めの風が吹き抜けた。
「きゃっ!?」
慌ててスカートを押さえる美咲。
周囲に人が少なかったのが幸いだった。
だが本人は真っ赤になっている。
「今日は風強いな」
「悠真」
「何だ」
「今、何か見た?」
「見てない」
「本当?」
「本当」
実際、反射的に視線を逸らしていた。
美咲はしばらく疑うような目を向けていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ならいいけど」
「昔から思ってたけど」
「何?」
「お前、そういうところだけ警戒心が薄いよな」
「うるさい」
ぽかっと肩を叩かれる。
そのやり取りすら楽しかった。
夕方になり、園内の人も少しずつ減り始めた。
帰る前に乗った観覧車。
二人きりの空間。
ゆっくりと上昇していくゴンドラの中で、会話が途切れる。
沈黙が気まずいわけではない。
むしろ心地よかった。
だからこそ、俺は思った。
このままでは駄目だと。
ずっと幼馴染のまま。
何も言えないまま。
それで後悔したくなかった。
「美咲」
「ん?」
彼女がこちらを見る。
窓から差し込む夕陽が横顔を照らしていた。
綺麗だと思った。
昔から知っているはずなのに。
今さら気付いたみたいに。
「俺さ」
「うん」
「お前のこと、好きだ」
言ってしまった。
心臓が痛いほど鳴る。
美咲は驚いたように目を見開いた。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
沈黙が続く。
やがて彼女は俯いた。
「……遅い」
「え?」
「遅いよ」
美咲は少しだけ頬を膨らませる。
「私がどれだけ待ったと思ってるの」
「待った?」
「中学の頃から」
頭が真っ白になった。
予想していなかった。
いや、本当は期待していたのかもしれない。
「じゃあ」
「うん」
「俺と」
「付き合う?」
先に言われた。
しかも少し意地悪そうな笑顔で。
俺は思わず笑ってしまう。
「そう、それ」
「仕方ないなあ」
そう言いながら、美咲はそっと俺の隣へ移動してきた。
肩が触れる。
昔なら気にしなかった距離。
だが今は違う。
恋人としての距離だった。
「これからよろしくね」
「ああ」
「でも一つだけ」
「何だ?」
「あのこと全部忘れて」
「どれのことだ?」
「風とか段差とか」
「無理だろ」
「忘れて!」
真っ赤になって抗議する美咲を見て、思わず吹き出す。
結局、最後まで彼女は変わらなかった。
少しドジで。
騒がしくて。
よく笑う。
そして誰よりも大切な幼馴染。
――いや。
もう幼馴染だけじゃない。
観覧車がゆっくりと地上へ降りていく。
夕焼けに染まる遊園地の中で、俺たちは新しい関係の第一歩を踏み出した。
これから先もきっと騒がしい日々が続くだろう。
それでも。
隣に美咲がいてくれるなら、悪くない。
そんなことを思いながら、俺は彼女と並んで観覧車を降りたのだった。


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