彼は少女に繋いだ糸から、工房に興味が向くように仕向けた。
工房へ少女が現れたのは、それから数日後のことだった。
朝から降り続いていた雨がようやく止み、濡れた石畳が鈍く光っている。
彼は作業机に向かい、人形の指先を削っていた。
扉を叩く音が響く。
来客は珍しい。
最近は依頼を受けていない。
彼は無言で扉を開いた。
そこに立っていたのは、あの日市場で見かけた少女だった。
少女もまた彼を見るなり驚いた顔をした。
「あ……」
言葉が途切れる。
彼は内心の興奮を隠しながら、何も言わずに見つめた。
少女は気まずそうに頭を掻いた。
「その……ここ、人形工房ですよね?」
あぁ、と彼は短く頷く。
少女の視線は工房の奥へ向いていた。
並ぶ人形たちの精巧な細工。
見たこともないであろう職人道具。
そのどれもに少女の目は輝いていた。
「市場で聞いたんです。すごい人形師がいるって」
興味を隠しきれない声だった。
彼は少し考える。
少女の感情は糸を通して以前から流れ込んで来ている。
好奇心が強い。
警戒心は薄い。
そして、衣服の擦り切れや色褪せた布地が少女の貧しさを示していた。
『都合がいい』と内心思った。
居場所を提供しさえすれば常に観察できる。
「見学したいのか」
「はい」
彼は扉を開けた。
「好きに見ろ」
少女の目が輝いた。
それから数時間。
少女は魔法の国に迷い込んだかのように工房中を歩き回った。
完成した人形を眺め、途中の部品に首を傾げる。
詳細に書き込まれた設計図に目を丸め、見たことのない作業道具に驚く。
彼は作業を続けながら何でもないような風を装って横目で観察する。
人形を見た時の反応。
驚いた時の表情。
感嘆した時の息遣い。
どれも貴重な記録だった。
少女は何度か工房へ通うようになった。
最初は数日に一度。
やがて毎日のように。
日雇いの仕事が終わると顔を出す。
彼も追い返さなかった。
むしろ都合が良かった。
観察対象が自ら近付いてくるのだから。
ある日。
少女は工房の掃除をしていた。
積み上がった木屑を集め、床を磨く。
「手伝わなくていい」
彼は言った。
「でも散らかってますし」
少女は笑った。
「こういうの嫌いじゃないんです」
彼は返事をしなかった。
その代わり、ノートへ書き込む。
『作業中、独り言が増える』
『頼まれていない行動を取る』
『居場所を作ろうとする傾向』
少女は気付かない。
自分の全てが記録されていることに。
季節が少し進んだ頃。
少女は雨の中を訪ねてきた。
全身が濡れていた。
聞けば仕事場を追い出されたらしい。
雇い主が変わり、人員整理されたのだという。
少女は笑っていた。
困っているはずなのに。
その笑顔を見て、彼は胸の奥がざわつくのを感じた。
かつても見た。
苦しい時ほど笑おうとする癖。
それは亡き恋人にもあった。
一瞬だけ記憶が重なる。
雨の日。
窓辺。
濡れた髪。
笑う横顔。
彼は視線を逸らした。
「空いている部屋がある」
少女は目を丸くした。
「え?」
「研究にも都合がいい」
それだけ告げた。
少女は意味を理解していない。
ただ住む場所がないことだけは事実だった。
しばらく悩み、深々と頭を下げた。
「お願いします」
そうして少女は工房へ住み込むことになった。
助手という名目だった。
朝は掃除。
昼は買い出し。
夜は作業の手伝い。
生活は穏やかだった。
彼も研究を続けていた。
感情の動き。
癖。
習慣。
記録は増えていく。
だが奇妙な変化が起き始めていた。
少女が笑う。
ふと亡き恋人を思い出す。
少女が首を傾げる。
記憶の中の姿が重なる。
少女が疲れて居眠りする。
その寝顔に胸が締め付けられる。
違う。
分かっている。
別人だ。
だが心が追い付かない。
いつからだろう。
研究ノートに少女の観察記録ではなく、日常の出来事を書き残すようになっていたのは。
『今日は花を持ち帰った』
『食事を焦がした』
『笑っていた』
研究とは関係ない。
そんな記録ばかり増えていく。
ある夜。
少女は作業机で眠っていた。
本を読んでいる途中だった。
彼は起こそうとして近付く。
その時だった。
少女の指先が机から落ちる。
反射的に彼は手を取った。
温かい。
生きている温度だった。
その瞬間。
記憶の奥底から蘇る。
かつて何度も握った手。
共に歩いた日々。
失った温もり。
胸の奥が熱くなる。
少女が目を覚ました。
「すみません、寝ちゃって……」
彼は慌てて手を離した。
心臓が激しく脈打っている。
少女は何も気付いていない。
だが彼は理解してしまった。
境界が曖昧になり始めている。
研究対象。
助手。
少女。
亡き恋人。
その線引きが崩れていた。
そしてある朝。
異変は突然訪れた。
彼は目を覚まし、廊下を歩く。
どこかから嗚咽が聞こえた。
少女の部屋だった。
扉が少し開いている。
中を覗く。
少女はベッドに座り込み、泣いていた。
声を殺しながら。
肩を震わせながら。
「お父さん……お母さん……」
途切れ途切れの声。
夢を見たのだろう。
両親を失った日の夢を。
少女は子供のように泣いていた。
その姿を見た瞬間。
彼は凍り付いた。
何をしている。
自分は何を見ていた。
何を求めていた。
目の前にいるのは代用品ではない。
研究材料でもない。
亡き恋人でもない。
家族を失い必死に生きているただ一人の人間だった。
彼は後ずさる。
胸が締め付けられる。
吐き気がする。
恋人を忘れたわけではない。
忘れられるはずもない。
あの人は聖域だった。
失われたまま永遠に触れられない存在だった。
『それなのに。』
自分は少女へ心を向け始めていた。
笑顔を見れば安心した。
帰りが遅ければ気になった。
無事を願った。
それは研究者の感情ではない。
人としての感情だった。
「違う……」
声が漏れる。
「違う……」
だが否定できない。
彼は工房へ戻り、机を蹴り倒した。
紙束が舞う。
道具が散乱する。
作りかけの人形が床へ落ちる。
それでも止まらない。
床に落ちた人形を踏み壊す。
道具を床に叩きつける。
本棚から書物を投げ捨てる。
自分自身が許せなかった。
愛を失ったから狂った。
彼女を取り戻すために全てを捨てた。
そのはずだった。
なのに。
『別の誰かを想ってしまった。』
それは彼女への裏切りのように感じられた。
彼女そっくりな人形の無機質な瞳が彼を見ていた。
『あなた…私はここにいるのに…』
人形に責め立てられている気がした。
それから彼は壊れ始めた。
眠らない。
食べない。
研究も進まない。
工房は荒れていく。
少女は最初、理由が分からなかった。
だが少しずつ知ってしまう。
積み上げられた記録。
亡き恋人について書かれたノート。
狂気じみた研究。
失われた過去。
そして今も続く苦しみ。
少女は静かに理解した。
この人は恐ろしい。
だが同時にとても純粋で、とても壊れている。
誰よりも。
ある晩。
机に突っ伏した彼へ毛布を掛けながら、少女は小さく呟いた。
「放っておけないじゃないですか」
返事はない。
眠っている。
もう『糸』は繋がっていない。
少女は少しだけ笑った。
工房は静かだった。
壊れた人形。
散乱する資料。
止まった研究。
それでも少女は出ていかなかった。
この場所にはまだ、自分にできることがある気がしたからだ。
そして彼もまた知らなかった。
失われたと思っていた人生が、静かに別の形で動き始めていることを。


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