あの甘酸っぱくも心臓に悪い「皿洗い」の夜から数日。
エリアンは完全に、クラリスの家の「常連」と化していた。
毎日のように人間の姿に擬態しては、薪割りを(手加減しすぎて逆に時間がかかりながらも)手伝ったり、遠くの街の珍しい果物(懐の宝物庫から空間を繋げてこっそり持ってきたもの)を差し入れたり。
相変わらず空回りしてはクラリスをクスリと笑わせていたが、二人の距離は確実に縮まっていた。
そんなある日、エリアンが村にやってくると、いつもより活気に満ちた雰囲気に包まれていた。
広場には色鮮やかな旗が掲げられ、大人たちが屋台の骨組みを組み立てている。
「あ、エリアンさん! こんにちは!」
広場の様子を怪訝そうに見つめていたエリアンに、買い物カゴを抱えたクラリスがトコトコと駆け寄ってきた。
「ふん、クラリスか。人間どもが朝から騒がしいようだが、何か不届きな魔獣でも攻めてくるのか? 必要なら今すぐ群れごと消し去ってやってもいいが」
「違いますよ! もう、すぐ物騒なことを言うんだから」
クラリスは呆れたように笑いながら、嬉しそうに目を輝かせた。
「今週末、この村で一年に一度の『星紡ぎの祭り』があるんです。夜空いっぱいに流れる星を見ながら、大切な人と一緒にお菓子を食べて、これからの幸せを願うお祭りなんですよ」
「大切な人と、幸せを願う……?」
エリアンはその言葉を頭の中で反芻した。
竜の社会には「祭り」などという風習はない。
あるのは強者が弱者を従える儀式か、あるいは縄張り争いだけだ。
人間の行うそれは、酷く生産性のない、平和ボケしたものに思えた。
――クラリスが、少しだけ照れくさそうに指先をもじもじと動かすまでは。
「あのね、エリアンさん。もし……もし、ご迷惑でなければ、なんですけど……」
クラリスは上目遣いで、ひだまりのような青い瞳をエリアンに向けた。
「私と一緒に、そのお祭りに行ってくれませんか……?」
「――ッ!?」
エリアンの脳内で、一国を消し去るほどの特大の爆発が起きた。
それは人間たちの間で「デートの誘い」と呼ばれる、最上級のイベントではないか!
ポーカーフェイスを維持しようとしたエリアンだったが、あまりの衝撃に金の瞳が限界まで見開かれ、背後からは隠しきれない銀色の魔力の火花がパチパチと漏れ出そうになっていた。
「お、俺と、貴様が、共にお祭りだと……!?」
エリアンは限界まで声を張り上げそうになるのを、超人的な理性でどうにか抑え込んだ。
内心では、喜びのあまり本物の竜の姿に戻って天高く舞い上がり、祝福のブレスを吐き散らしたい気分だったが、ここでそんなことをすれば村が灰になる。
「ふ、ふん……。人間どもの退屈な催しなど興味はないが、貴様がどうしてもと言うなら、同行してやらんこともない。一人で行って、また別の魔獣に襲われても面倒だからな」
腕を組み、ふいっと顔を背けながら、精いっぱいのぶっきらぼうを装うエリアン。しかし、その耳の先端は隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。
「本当ですか!? 嬉しい……! ありがとうございます、エリアンさん!」
クラリスは彼のツンツンした態度などすっかりお見通しといった様子で、パッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
その眩しさに、エリアンはあやうくその場で胸を押さえて倒れ込みそうになる。
そして、祭り当日までの数日間。
エリアンは再び、凄まじい大空回りの日々を送っていた。
(人間の『デート』という儀式において、最も重要なのは『正装』のはずだ。クラリスに恥をかかせるわけにはいかん。だが、人間の祭りの正装とは一体何だ……!?)
彼はドラゴンの巣(財宝の山)をひっくり返し、かつて人間たちから貢がれたり奪ったりした衣類を引っ張り出していた。
金糸で刺繍された一国の王の儀礼服、あるいは伝説の勇者が身に付けていたという黄金の鎧、はたまたどこかの大魔導士が愛用していた儀式用のローブ。
どれも世界の至宝だが、田舎町の素朴な「星紡ぎの祭り」に着ていけば、浮くどころか国家間の緊張を生み出しかねない代物ばかりだ。
結局、エリアンは悩みに悩んだ末、いつもの漆黒の外套をクラリスが綺麗に洗ってくれたままで着ていくことに落ち着いた。
彼女の匂いがほんのり残るその衣服こそが、彼にとって世界で一番の正装だったからだ。
祭り当日の夕暮れ。
待ち合わせ場所である村の入り口の大きな木の下で、エリアンはそわそわと足を動かしていた。
「エリアンさん、お待たせしました!」
聞き慣れた愛らしい声に振り返った瞬間、エリアンは息をすることさえ忘れてしまった。
そこにいたのは、いつもと違う、村の伝統的な白い晴れ着に身を包んだクラリスだった。
髪には小さな星型の花の髪飾りが揺れ、夕暮れの茜色に照らされた彼女は、まるで本物の星の女神が地上に降り立ってきたかのように美しかった。
「……っ」
エリアンは完全に言葉を失い、木彫りの像のように硬直した。
目の前に立つクラリスがあまりにも眩すぎて、彼の鋭い金の瞳がチカチカと明滅する。
心臓がうるさいほどの早鐘を打ち、擬態している人間の肉体が熱で溶けてしまいそうだった。
「あの、エリアンさん……? 変、ですかね……? あまり着慣れなくて、なんだか落ち着かなくて」
エリアンがあまりにも無言で凝視してくるため、クラリスは不安になったのか、白い晴れ着の裾を小さく弄りながら頬を染めた。
その健気な姿に、エリアンの理性が大爆発を起こす。
「へ、変なわけがあるか、この大馬鹿者! 貴様は、その……人間の分際で、少し綺麗すぎるのだ!」
「えっ……!?」
「あ、いや! 違う! 今のはただの、その、言葉の綾だ! とにかく行くぞ!」
またしても盛大な失言(?)をやらかしたエリアンは、真っ赤になった顔を隠すように、大股でスタスタと祭り会場へ向かって歩き出してしまった。
後ろに取り残されたクラリスは、一瞬きょとんとした後、彼の言葉の意味を理解して、耳まで真っ赤にしながら「待ってください、エリアンさん!」と嬉しそうに追いかけた。
村の広場は、無数のランタンの光で幻想的に彩られていた。
出店からは甘いお菓子の香りが漂い、人々が楽しげに笑い合っている。
エリアンは、相変わらず凄まじい警戒の目を周囲に向けていた。
これまでは「ただの羽虫どもの群れ」としか思っていなかった人間の祭りが、クラリスが隣にいるだけで、まるで世界の中心であるかのように輝いて見える。
「わあ、見てくださいエリアンさん! あそこのお菓子、とっても美味しそう!」
クラリスが楽しそうに屋台を指差す。
その時、神輿(みこし)を担いだ一団が通りかかり、広場の人波が大きく揺れ動いた。
「きゃっ……!?」
小さなクラリスの身体が、人混みに押されてエリアンから離れそうになる。
「クラリス!」
エリアンは反射的に手を伸ばした。
かつて木箱を粉砕し、魔獣を崖まで吹き飛ばしたその強大な右手が、今はガラス細工を包み込むようなこの上ない優しさと慎重さで、クラリスの小さな手をギュッと握りしめた。
「――っ」
繋がれた手から、お互いの熱がダイレクトに伝わってくる。
二人は人混みの中でピタリと足を止め、互いに顔を真っ赤にして見つめ合った。
「す、すまない。離れそうだったから、つい……」
エリアンは慌てて手を離そうとした。しかし、クラリスの小さな指先が、彼の大きな手をきゅっと握り返した。
「……このままで、いいですか? はぐれちゃったら、寂しいですから」
俯きながらそう呟いたクラリスの顔は、ランタンの灯りのせいだけではなく、真っ赤に染まっていた。
その健気な一言に、エリアンの胸の奥が熱い何かで満たされていく。
彼はもう手を離さなかった。
今度はしっかりと、けれど決して彼女を傷つけない絶妙な力加減で、その手を握りしめた。
二人は騒がしい広場を抜け、村の裏手にある、星が一番よく見えるという静かな丘へと向かった。
丘の上に立つと、心地よい夜風が二人の髪を揺らした。
見下ろせば村のランタンがまるで地上の星のように輝き、見上げれば夜空を埋め尽くすほどの満天の星々が広がっている。
「あ……始まりますよ、エリアンさん!」
クラリスが息をのんだ瞬間、夜空の端から、一筋の美しい銀光が走った。
それを合図に、十、二十、いや数え切れないほどの流れ星が、夜空を紡ぐように次々と降り注ぎ始めたのだ。
「わあ……」
クラリスは胸の前で両手を合わせ、そっと目を閉じて祈りを捧げ始めた。
その横顔を、エリアンはじっと見つめていた。
数百年を生きてきて、星が流れる現象など数え切れないほど見てきた。
だが、隣で熱心に祈る少女の横顔の方が、どの流星よりも遥かに美しく、エリアンの心を捉えて離さない。
「……何を祈ったのだ、クラリス」
彼女がゆっくりと目を開けたのを見計らい、エリアンは静かに尋ねた。
クラリスは少し恥ずかしそうにはにかみながら、彼を真っ直ぐに見上げた。
「『これからもずっと、エリアンさんと一緒に美味しいご飯が食べられますように』って、そうお願いしたんです」
「――っ」
それは、あまりにも素朴で、けれどエリアンにとっては世界の何よりも重く、愛おしい願いだった。
(神などという不確かなものに、俺たちの未来を委ねてたまるか。お前のその願い、俺がこの命に代えても叶えてやる)
エリアンは深く息を吸い込み、彼女の手をもう一度力強く握り直した。
「クラリス。星に願う必要などない。そんなものは、俺がすべて叶えてやる」
「え……?」
「約束だ。俺はこれからもずっと、お前の隣にいる。貴様が『もう来るな』と泣いて拒むまで、何度でもお前の元へ来てやるから覚悟しておけ」
不器用で、どこか傲慢な、けれどこれ以上ないほど真っ直ぐなエリアンの愛の告白。
クラリスの青い瞳に、じわりと嬉し涙が浮かぶ。彼女は満面の、ひだまりのような笑顔を咲かせた。
「はい! 楽しみに待っていますね、エリアンさん」
流星群が降り注ぐ夜空の下、しっかりと結ばれた二人の手。
不器用な銀竜と心優しい少女の純愛は、星々の祝福を受けながら、これからもどこまでも深く、温かく紡がれていくのだった。

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