クラリスと「明日、また会う」という約束を交わした翌日。
エリアンは、人生(竜生)で初めて「待ち遠しくて夜も眠れない」という経験をしていた。
日の出とともに飛び起き、人間に擬態した彼は、約束の時間の実に3時間前にはクラリスの家の見える丘に到着していた。
(……まだ早い。人間には『常識的な訪問時間』というものがあるはずだ。
いくら俺が最強の竜だからといって、朝っぱらから押し寄せたら、ただの飢えた野獣だと思われかねない)
銀髪をかきむしり、狭い丘の上をウロウロと行き来するエリアン。
彼の足元では、あまりの緊張のプレッシャー(漏れ出た魔力)に耐えかねたアリたちが、一斉に巣の引っ越しを始めていた。
時計の針がようやく約束の時間を指した瞬間、エリアンはまるで獲物を見つけた鷹のような速度で丘を駆け下り、クラリスの家の扉の前に立った。
ふう、と深く息を吐き、人間の「スマートな男」を意識して、優しくノックする。
コン、コン。
「はーい、今開けますね!」
中からパタパタと軽やかな足音が聞こえ、扉が開く。
そこには、昨日と同じように、ひだまりのような笑みを浮かべたクラリスが立っていた。
「あ、エリアンさん! いらっしゃい……って、わあ!」
クラリスは驚きに目を丸くした。
それもそのはず、エリアンは「待ちくたびれた感」を一切出さないよう必死にポーカーフェイスを気取っていたが、その背後には緊張のあまりうっすらと謎の威圧感(オーラ)が立ち上っていたからだ。
「……約束通り、外套を取りに来てやった。綺麗になったのだろうな?」
わざと尊大な態度をとるエリアンだったが、視線はクラリスの顔に釘付けだった。
今日も彼女はたまらなく愛らしい。
「はい! もちろんです。これ、見てください!」
クラリスが誇らしげに差し出したのは、昨日あれほど泥まみれだった漆黒の外套だった。
汚れは跡形もなく消え去り、それどころか、お日様の匂いと、クラリスが使っているであろう安価な、けれどひどく甘くて優しい花の香りがふんわりと漂ってきた。
「ゴシゴシ洗ったら、なんだか前よりツヤツヤになっちゃって……。生地を傷めていなければ良いのですが」
「……っ」
手渡された外套を抱きしめた瞬間、エリアンの胸がドクンと跳ねた。
彼女が自分のために、その小さな手で一生懸命にこれを洗ってくれたのだ。
そう想像しただけで、竜の脳内は幸福感で破裂しそうになっていた。
「いや……完璧だ。素晴らしい」
「よかった!……あ、立ち話もなんですし、中にどうぞ? ちょうどハーブティーを入れたところなんです」
クラリスに促され、エリアンは緊張で身体をガチガチに硬くしながら、彼女の小さな家へと足を踏み入れた。
昨日から空回り続きの彼が、このまま大人しくお茶を飲んで終わるはずがなかった。
クラリスの家の中は、お日様の光が優しく差し込む、こぢんまりとした空間だった。
質素ながらも丁寧に手入れされた木製の家具が並び、窓辺には小さな花瓶に季節の野花が活けられている。
巨躯の竜であるエリアンにとって、人間の家はどこも「小さすぎる箱」のようだったが、この家だけは不思議と窮屈さを感じなかった。
むしろ、彼女を形作る優しい空気に包まれているようで、妙に落ち着かない。
「狭いところですけど、そこの椅子にどうぞ。今、お茶を注ぎますね」
「あ、あ、ああ……」
エリアンは、壊してしまわないかヒヤヒヤしながら、ギシッと音を立てる木製の椅子に腰掛けた。
すぐに、クラリスが湯気の立つ素焼きのカップと、小さな平皿に載ったクッキーを運んでくる。
「村の裏山で採れたハーブを使ったお茶なんです。お口に合うといいのですが……」
目の前に置かれたのは、透き通った琥珀色のお茶。
エリアンはゴクリと唾を飲み込んだ。
竜の感覚からすれば、人間の食べ物など、味が薄くて腹の足しにもならない代物のはずだった。
だが、目の前でクラリスが期待に満ちた目でこちらを見つめている。
彼は細心の注意を払い、指先でそっとカップの取っ手をつまみ上げた。
昨日、木箱の取っ手を粉砕した悪夢が脳裏をよぎる。
全神経を集中させ、生卵を扱うかのような優しさで、カップを唇へと運んだ。
ずず……と、一口、喉に流し込む。
「――っ」
エリアンの金の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
口の中に広がったのは、爽やかな野草の香りと、ほんのりとした自然な甘み。
そして何より、冷え切った身体の芯からじわじわと温まっていくような、形容しがたい心地よさだった。
(美味い……。なんだこれは。ただの葉を煮出した水ではないのか……!?)
「いかがですか……?」
不安そうに覗き込んでくるクラリスに、エリアンはふいっと顔を背け、精いっぱいの虚勢を張った。
「ふん……悪くない。俺の口に合うものを出すとは、褒めてやる」
「よかった! お口に合わなかったらどうしようって、ドキドキしていたんです」
クラリスはほっと胸をなでおろし、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、エリアンの胸の奥に、ある熱い感情が湧き上がってきた。
(昨日、泥だらけの外套を洗ってもらった。今日はおいしいお茶と菓子でもてなされた。
……このまま貰いっぱなしなど、誇り高き銀竜のプライドが許さん。
人間には『お返し』という概念があるのだろう?
ならば、俺も彼女に極上の施しをしてやらねば!)
彼の中で、不器用な「お返し(仕返し)」の作戦が、またしてもあらぬ方向へと動き始めようとしていた。
(ふん、人間どものお返しとやらは、一体何が正解なのだ? 貰ったものと同等の価値のものを返すのか?
いや、俺は最強の竜だ。格の違いを見せつけてやらねば気が済まん!)
エリアンはそう心の中で鼻息を荒くすると、仕立ての良い漆黒の外套の懐へ、おもむろに手を差し入れた。
彼が人間に擬態する際、懐の奥を自分の「財宝の山(ドラゴンの巣)」へと空間を繋げておいたのだ。
ガサゴソと探り、彼が取り出したのは――大人の拳ほどもある、眩いばかりにきらめく青い宝石だった。
「おい、クラリス。これを貴様にやる」
ドンッ! と、大きな音を立てて木製のテーブルに置かれたのは、深海のような青を宿した伝説の魔鉱石「竜藍石(りゅうらんせき)」。
一国の王が喉から手が出るほど欲しがり、これ一つのために戦争が起きてもおかしくないほどの、世界の至宝である。
「……え?」
クラリスは、カップを持ったまま完全に硬直した。
彼女の小さな家の一室が、宝石の放つ圧倒的な輝きで青く染まっている。
「昨日の外套の洗濯、そして今のお茶と菓子の代わりだ。受け取るがいい」
エリアンは腕を組み、ふんぞり返って不敵な笑みを浮かべた。
(どうだ! これほどの財宝を前にすれば、腰を抜かして俺を崇めるに違いない!)と、内心はドヤ顔の極みである。
しかし、クラリスの反応は、彼の予想とは全く異なるものだった。
「え、エリアンさん……これ、おもちゃ、ですか? ガラス細工……にしては、ものすごく綺麗ですけど……」
「おもちゃだと!? 冗談を言うな、これは本物の最高級の宝石だ!
これがあれば、この村を丸ごと買い取ることだってできるし、お前を一生働かずに贅沢三昧させてやることだってできる!」
熱弁するエリアン。だが、それを聞いたクラリスは、感動するどころか、みるみるうちに顔を青ざめさせていった。
「い、一国の王様が持つような本物の宝石……!? そんなもの、絶対に受け取れません!
もし泥棒に狙われたら大変ですし、そもそも、私はただお茶とお菓子を差し上げただけです!」
「なぜ受け取らん!? 施されたら、それ以上の力でねじ伏せる(お返しする)のが俺の流儀だ!」
「ねじ伏せるって言わないでください……!」
クラリスは困ったように眉を下げ、けれどもしっかりとした目でエリアンを見つめた。
「エリアンさん。私は、何か高価なものが欲しくてお茶をお出ししたわけじゃないんです。
あなたが昨日、一生懸命お芋を運んでくれたのが嬉しくて……ただ、お礼がしたかっただけなんですよ?」
「お、お礼……?」
エリアンは言葉を失った。
見返りを求めない、純粋な「好意の循環」。
竜の世界には存在しないその温かい概念に触れ、彼はまたしても自分の常識が木っ端微塵に砕かれるのを感じていた。
「……そう、なのか」
エリアンは完全に意気消沈し、耳まで赤くして大宝石を引っ込めた。
最強の竜ともあろう者が、人間の少女の純粋な善意を前にして、己の浅はかさをこれでもかと突きつけられていた。
彼女を喜ばせようと躍起になるあまり、自分の価値観を押し付けていただけだったのだ。
昨日の木箱に続き、またしても手痛い空振りをやらかしたことに、エリアンは椅子の上で小さく丸くなった。
そんな彼の様子を見て、クラリスはクスクスと小さく笑った。
怒っているのではなく、彼の不器用な優しさが可笑しく、そして愛おしかったのだ。
「でも、エリアンさん。その……お返しをしたいっていうお気持ちは、とっても嬉しいです」
「……慰めはよせ。俺の負けだ」
「勝ち負けじゃありませんよ」
クラリスはテーブル越しに、エリアンの大きな手をそっと包み込んだ。
触れた瞬間、エリアンの身体に電流が走る。彼女の手は小さく、頼りないほどに柔らかいのに、どうしてこんなにも心を支配されてしまうのだろう。
「もし、どうしてもお返しをしてくださるなら……今度、私の『おねがい』を一つ、聞いてもらえませんか?」
「おねがい……? 何だ、言ってみろ。世界の果てにある秘宝でも、大国を滅ぼすことでも、何でも叶えてやる」
「そんな物騒なこと頼みません!」
クラリスは呆れ顔になりながらも、楽しそうに目を輝かせた。
「来週、裏山へ冬越しの薬草を採りに行きたいんです。でも、最近は物騒な魔獣が出るっていう噂があって……。
だから、あの、力持ちのエリアンさんに、護衛として一緒についてきてほしいんです」
「……そんなことでいいのか?」
「はい! それが私の一番の『おねがい』です」
エリアンは、胸の奥から溢れ出す愛おしさを抑えきれなかった。
護衛など、竜である彼にとっては息をするよりも簡単なことだ。
しかも、また彼女と一緒に過ごす理由ができる。
「ふん……。いいだろう。その魔獣とやらが何者かは知らんが、お前の髪一筋にすら触れさせん。この俺が完璧に守り抜いてみせる」
腕を組み、今度こそ大真面目な顔で宣言するエリアン。
クラリスはそんな彼を頼もしそうに見つめ、「ありがとうございます、私の騎士様」と悪戯っぽく微笑んだ。
帰り道、夕暮れに染まる山の道を歩きながら、エリアンは自分の胸に手を当てた。
懐にある冷たい宝石よりも、クラリスがくれた言葉の温もりの方が、ずっと彼を幸福にする。
(人間の心とは、なんと奇妙で、なんと温かいものか……)
不器用な竜の青年は、恋した少女の歩幅に合わせるように、一歩ずつ、しかし確実に「愛すること」を知っていく。
二人の距離がほんの少し縮まった、静かな秋の日の出来事だった。


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