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冬の灯

オリジナル小説

港町に初雪が降った日、彼女は古びた時計店の扉を押した。
潮風にさらされた看板は文字も薄れ、店先には誰も足を止めない。
それでも店の奥では、無数の時計が規則正しく時を刻んでいた。
カウンターの向こうにいた青年は顔を上げると、少し驚いたように目を見開いた。

「修理ですか」

彼女は首を振った。

「暖まりたかっただけ」

正直な答えだった。
青年はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。

「それなら、どうぞ」

その日から奇妙な縁が始まった。
彼女は近くの食堂で働いていた。
両親を早くに亡くし、一人で暮らしている。決して豊かではない生活だった。

一方、青年もまた一人だった。
先代である父親が亡くなって以来、この店を守り続けている。

二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
彼女は仕事帰りに店へ寄り、青年は壊れた時計を直しながら話を聞く。
今日あった出来事。
食堂の常連客の愚痴。
海の色。
空の匂い。

どれも取るに足らない話だったが、不思議と飽きることはなかった。
冬が終わり、春が訪れた頃には、彼女が店を訪れない日のほうが珍しくなっていた。
ある日、青年は言った。

「手伝ってくれませんか」

「私が?」

「細かい作業は無理でも、掃除や整理くらいなら」

彼女は笑った。

「お給料は?」

「紅茶一杯」

「安すぎる」

そう言いながらも断らなかった。

店に並ぶ時計は増え、仕事も少しずつ忙しくなった。
二人で過ごす時間も増えていく。
気づけば、それが当たり前になっていた。

夏祭りの日。
港では花火が上がっていた。
人混みを避けて高台へ向かった二人は、草の上に並んで腰を下ろした。
夜空に咲く光を見上げながら、彼女はぽつりと言った。

「ねえ」

「何ですか」

「もし私がいなくなったら、寂しい?」

青年は返事をしなかった。
代わりに視線だけを向けた。
花火の光が彼女の横顔を照らしている。
その表情は冗談を言う人間のものではなかった。

「寂しいですよ」

しばらくして、青年は答えた。

「とても」

彼女は少しだけ笑った。
それは嬉しそうでもあり、悲しそうでもあった。

秋になると、彼女は咳をするようになった。
最初は誰も気にしなかった。
季節の変わり目だから。
風邪を引いただけだから。
しかし咳は止まらなかった。
熱も続いた。

やがて診療所の医師が静かに告げた。
長くはない、と。
治療法のない病だった。
彼女は驚くほど冷静だった。
むしろ取り乱したのは青年のほうだった。

「何か方法があるはずです」

「ないよ」

「探します」

「無理」

彼女は笑った。いつものように。
けれど、その笑顔は少しだけ弱々しかった。

冬が近づくにつれ、彼女は店へ来られなくなった。
青年は毎日彼女の家を訪れた。
食事を作り、薬を届ける。
時計店の仕事が終われば、必ず顔を見に行った。

ある晩。
窓の外では雪が降っていた。
暖炉の火が小さく揺れている。
彼女は毛布に包まりながら、かすれた声で言った。

「ごめんね」

「何がですか」

「あなたを一人にしちゃう」

青年は何も答えられなかった。
沈黙だけが部屋に落ちる。
彼女はゆっくりと手を伸ばした。
細くなった指先が彼の頬に触れる。
青年はその手を包み込んだ。
壊れ物を扱うように。
彼女の体温は驚くほど低かった。

「ねえ」

「はい」

「少しだけ近くに来て」

青年は言われるまま身を寄せた。
二人の額が触れそうな距離になる。
彼女は目を閉じた。
呼吸がかすかに混じり合う。
互いの存在を確かめるような静かな時間だった。
やがて彼女は小さく笑う。

「これで十分」

青年は意味を尋ねなかった。
尋ねれば、その先にある言葉まで聞いてしまいそうだったから。

それから数週間後。
雪の降る朝だった。
彼女は目を覚まさなかった。
枕元には一枚の紙が残されていた。
震える文字でこう書かれていた。

――ありがとう。

たったそれだけだった。

葬儀の後も、青年は時計店を続けた。
店内には相変わらず無数の時計が並んでいる。

時間は止まらない。
誰かが死んでも。
誰かが泣いていても。
淡々と前へ進んでいく。

それが時というものだった。

春が来た。
彼女と出会った季節だった。
青年は店の奥を整理している最中、小さな箱を見つけた。
見覚えのない箱だった。
開くと、中には懐中時計が入っていた。
蓋の裏には文字が刻まれている。
不器用な手彫りだった。
きっと彼女のものだろう。
そこにはこう書かれていた。

――あなたと過ごした時間が、私の一番の宝物です。

青年はしばらく動けなかった。
文字が滲む。
視界が揺れる。
初めて彼は声を上げて泣いた。
失ってからでは遅い。
そんな言葉は知っていた。
けれど本当に失うまでは、その重さなど理解できない。
彼は彼女に想いを伝えなかった。
彼女もまた伝えなかった。
二人とも分かっていたからだ。
言葉にした瞬間、それは未来を望んでしまう。
共に生きる明日を願ってしまう。
しかし彼女には、その明日がなかった。
だから最後まで口にしなかった。
ただ隣にいることだけを選んだ。
それでも。
いや、だからこそ。
残された想いは時を経ても消えなかった。

夕暮れ時、店の窓から海が見える。
春の光が水面を照らしている。
青年は懐中時計を握りしめながら、静かに目を閉じた。
もしもう一度会えたなら。
今度こそ伝えるだろう。

好きだったと。
愛していたと。

そしてきっと彼女は、少し困ったように笑うのだ。
あの冬の夜と同じ顔で。
近すぎず、遠すぎず。
触れた頬の温もりだけを残して。
届かなかった言葉は、今も時計の針と共に刻まれ続けている。
失われた時間としてではなく。
確かに存在した幸福の証として。

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オリジナル小説冬の灯【完結】
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