クラリスと約束した、裏山への薬草摘みの日がやってきた。
「護衛」という大役を任されたエリアンは、この日も凄まじく張り切っていた。
なにせ、愛する少女を不届きな魔獣から守る大チャンスなのだ。
彼は人間に擬態した姿のまま、クラリスの家の前で彼女を待っていた。
その手には、どこからどう見ても一般人が山菜採りに持っていくようなレベルではない、禍々しい漆黒の大剣が握られている。
「お待たせしました、エリアンさん! ……って、わあ!? な、なんですかその大きな剣は!?」
家から出てきたクラリスは、エリアンが引きずっている身の丈以上の大剣を見て、文字通り飛び上がって驚いた。
「ふん、護衛なのだから当然だろう。これは俺の宝物庫から持ってきた、魔人の骨を鍛えた呪剣だ。一振りで山を両断できる」
「そんな物騒なもの山に持ち込まないでください! 薬草が全部消し飛んじゃいます!」
クラリスに全力でダメ出しされ、エリアンは「チッ、これだから人間は……」と不満げに眉をひそめつつも、素直に大剣を懐の空間(宝物庫)へと引っ込めた。
「ならば素手でいく。安心しろ、俺の拳はこの剣よりも遥かに硬い」
「もう、冗談ばかりなんだから」
クラリスは、エリアンがただの「ちょっと変わった、凄く力持ちな男の子」だと思っているので、彼の言葉を冗談だと受け止めて楽しそうに笑った。
まさか目の前の青年が、本気で素手で山を更地にできる本物のドラゴンだとは夢にも思っていないのだ。
カゴを手に持ったクラリスと、手ぶら(しかし全身に最強の魔力をみなぎらせた)エリアンは、並んで裏山へと足を踏み入れた。
秋の木漏れ日が差し込む山道は、鳥のさえずりが響き、一見すると非常に平和だった。
しかし、エリアンの鋭い竜の感覚は、山の奥深くから漂ってくる「不穏な獣の臭い」を、すでに敏感に察知していた。
(……ほう。ネズミ一匹通さぬつもりだったが、本当に現れるようだな。お前たちの血で、彼女の神聖な薬草を汚させるわけにはいかん)
エリアンはクラリスに気づかれないよう、金の瞳を冷酷に光らせ、周囲の気配を警戒し始めた。
エリアンの金色の目の瞳孔がすっと細くなる。
純愛の裏側で、最強の竜の狩猟本能が静かに目を覚まそうとしていた。
「あ、ありました! エリアンさん、見てください。これが冬越しの薬草『ひだまり草』です!」
山の少し開けた斜面で、クラリスが嬉しそうに声をあげた。
緑の葉の隙間に、小さな黄色い花を咲かせている。
彼女はカゴを地面に置くと、慣れた手つきで丁寧に薬草を摘み始めた。
その様子を、エリアンは少し離れた場所で腕を組んで見守っていた。
真剣な眼差しで薬草に向き合うクラリスの横顔は、木漏れ日に照らされてどこか神秘的で、エリアンは不覚にもまた見惚れてしまう。
(……やはり、この娘の隣は心地いいな。人間への擬態など面倒なだけだと思っていたが、悪くない)
そんな穏やかな空気が流れたのも、束の間だった。
ガルルルルル……ッ!!!
突如、激しい地響きとともに、前方の鬱蒼とした茂みが爆発したように弾け飛んだ。
現れたのは、通常の熊の数倍はある巨体に、どす黒い魔力をまとった魔獣「シャドウ・ベア」。
ただの獣ではない。
人間の軍隊が一小隊がかりでようやく倒せるレベルの、狂暴な人食い魔獣だった。
「ひっ……!?」
あまりの巨体と風圧に、クラリスが尻もちをつく。
シャドウ・ベアは、目の前にいる格好の獲物――クラリスに向かって、赤く濁った目をギラつかせ、鋭い爪を振り上げた。
「グルアアアアオォォッ!!!」
「クラリスっ!!」
魔獣の爪が彼女を引き裂くよりも早く、一筋の銀光が閃いた。
エリアンが、人間の目では捉え切れないほどの超高速で、クラリスと魔獣の間に割って入ったのだ。
ドォォォン!!!
凄まじい衝撃音が山に轟く。
しかし、悲鳴をあげたのは人間ではなく、魔獣のほうだった。
「ガ、ガァ……ッ!?」
シャドウ・ベアの巨体が、ピタリと空中で止まっていた。
エリアンが、魔獣の巨大な爪を、人間の片手だけで軽々と受け止めていたのだ。
その足元の地面は、衝撃で蜘蛛の巣状にひび割れている。
「おい、羽虫め」
エリアンは金の瞳を冷酷に細め、地獄の底から響くような低い声で呟いた。
「誰の許可を得て、その汚い爪を俺の宝に向けている?」
人間の姿のままであるにもかかわらず、エリアンの身体から、絶対的な捕食者としての「竜の覇気」が津波のように溢れ出した。
先ほどまで狂暴だった魔獣の巨体が、本能的な恐怖によってガタガタと震え始めた。
「ギ、ギギ……ッ」
シャドウ・ベアは、目の前の「人間の青年」から放たれる、おぞましいほどのプレッシャーに完全に呑まれていた。
生物としての格が違いすぎる。今すぐ逃げ出したいという本能が警鐘を鳴らしていたが、恐怖のあまり身体が動かない。
しかし、魔獣も山の王者としてのプライドがあるのか、狂乱状態で残されたもう片方の爪を振り下ろした。死に物狂いの一撃。
「往生際の悪い雑魚め」
(本気で殴っては山が消し飛ぶ……。手加減をせねばな……。)
エリアンはため息をひとつつくと、魔獣の爪を掴んでいた手をパッと離した。
そして、迫り来る巨大な爪に対し、避けることもせず、ただ静かに右の拳を真っ直ぐに突き出した。
構えも何もない、ただの素人の正拳突き。
だが、そこに込められた質量と魔力は、一国を滅ぼす竜のそれだ。
――ドッッッッゴォォォォン!!!
エリアンの拳がシャドウ・ベアの胸元に触れた瞬間、雷鳴のような爆音が山全体に響き渡った。
凄まじい衝撃波が走り、周囲の木々が激しくしなり、木の葉が嵐のように舞い散る。
「ガハッ……!?」
魔獣は悲鳴をあげる暇さえなかった。
巨体が文字通り「弾丸」のような速度で真後ろへと吹き飛び、何十本もの大木をドゴドゴとへし折りながら、遥か彼方の崖の壁面に激突。
そのまま白目を剥いて完全に気絶した。
エリアンは突き出した拳をゆっくりと引くと、衣服についた埃を払うように、手をパパッと叩いた。
「ふん。少し力を込めすぎたか。これでも『人間並み』に手加減したつもりなのだがな」
実際は手加減の枠を遥かに超えていたが、エリアンは大真面目だった。
(よし、これで俺の圧倒的な強さと、騎士としての頼もしさをアピールできたはずだ。クラリスも、俺のあまりの格好良さに目を輝かせているに違いない!)
そう確信し、満足げにフッと微笑みながら後ろを振り返るエリアン。
しかし、地面に座り込んだままのクラリスは、目を丸くし、口をあんぐりと開けて、完全にフリーズしていた。
「あ……あ……」
「どうした、クラリス? もう安心だ。あの程度の羽虫、俺の敵ではない」
エリアンが爽やかに(と本人は思っている)手を差し伸べると、クラリスはブルブルと震えながら、彼の拳と、遥か彼方で白目を剥いている魔獣を交互に見つめた。
「エ、エリアンさん……あなた、本当に、人間……ですか……?」
「――あ」
しまりがないほどに張り切りすぎた結果、自分が「ただの力持ちな人間の青年」という設定を完全に逸脱した戦い方をしてしまったことに、エリアンは今更ながら気づいたのだった。
「あ、いや! 違うのだ、クラリス! 誤解しないでくれ!」
エリアンは冷や汗を滝のように流しながら、ブンブンと激しく首を振った。
(まずい、完全にやりすぎた! 人間の常識では、熊のような巨獣を拳一つで崖まで吹き飛ばすなどあり得ない。
ここで正体がバレたら、彼女は俺を『化け物』と恐れ、二度とあのひだまりのような笑顔を向けてくれないかもしれない――!)
脳内で緊急警報が鳴り響く中、エリアンは必死に頭をフル回転させ、あまりにも苦しい言い訳を捻り出した。
「こ、これはだな! 我が家に代々伝わる……そう、『秘伝の呼吸法』と『東方の武術』の結晶だ!それに、俺の実家はもの凄い山奥にあり、幼少期から毎日岩を殴ったり、野生の猪と相撲を取ったりして体を鍛えていたから、たまたま、少しだけ人より腕力が強いだけで……!」
(我ながら無理がありすぎる……!)と内心で頭を抱え、引きつった笑みを浮かべるエリアン。
しかし、クラリスはしばらく呆然と彼を見つめたあと――ふっと、優しく目を細めて微笑んだ。
「……そっか。毎日、とっても一生懸命鍛えられたんですね」
「え……? し、信じるのか?」
「はい。エリアンさんが嘘をつくような人には見えませんから。それに……」
クラリスは立ち上がり、服についた泥を払うと、エリアンの前に一歩歩み寄った。
そして、先ほど魔獣を粉砕した彼の大きな右手を、そっと両手で包み込んだ。
「私を守るために、あんなに一生懸命になってくれたんですもんね。本当に、ありがとうございます。……お拳、痛くありませんか? 骨が折れたりしていませんか?」
「――っ」
エリアンは、またしても己の心臓が跳ね上がるのを覚えた。
あんな異常な怪力を見せつけられたというのに、彼女は恐怖するよりも先に、自分を守ってくれたことへの感謝と、彼の体の心配をしてくれているのだ。
「……お前の言う『ほねおり』など、するはずがない。俺の体は、世界で一番頑丈にできているのだからな」
エリアンはふいっと顔を背けたが、その耳は隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。
「ふふ、それなら良かったです! お薬草も無事にたくさん採れましたし、お家に帰りましょう。お腹、空きませんか? 今日は私、エリアンさんのために腕によりをかけて、美味しいご飯を作りますね!」
「ご飯……! 貴様の手料理か!? ……ふん、まぁ、そこまで言うなら食べてやらんこともない」
内心では狂喜乱舞し、世界の頂点で勝利の咆哮をあげたいほどの気分だったが、そこはやはりプライド高き銀竜。
どこまでも不器用な態度で、彼女の斜め後ろを歩き出す。
今度は、先ほどのように暴走することなく、彼女のトコトコという優しい足音をしっかりと耳で拾い、完全に歩幅を合わせながら。
最強の竜の拳は、世界を滅ぼすためにではなく、たった一人の少女の笑顔を守るために。
空回りしながらも、二人の純粋な想いは、秋の穏やかな夕暮れの中をゆっくりと進んでいくのだった。


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