大学の講義が休みの日、俺——蓮(れん)は、自室でノートパソコンに向かってレポートを作成していた。
静かな部屋に響くキーボードの打鍵音。
このまま集中して一気に終わらせる。
そう意気込んでいた俺の平穏は、背後から響いたけたたましい音によって破られた。
「れーんお兄ちゃん! あーそーぼっ!」
勢いよくドアが開くと同時に、我が物顔で突入してきたのは、小学4年生になる俺の姪っ子——心愛(ここあ)だった。
ツインテールを揺らし、フリルのついたワンピースをひるがえして、彼女は一瞬で俺のベッドへとダイブする。
「……心愛。入るときはノックしろっていつも言ってるだろ。あと、勝手に人の家(実家だけど)の鍵を開けて入ってくるな」
「だってお兄ちゃん、鍵閉めてないんだもん。それは心愛に『いつでも入ってきていいよ』っていうメッセージでしょ?」
ベッドの上でごろんと寝返りを打ちながら、心愛は不敵な笑みを浮かべる。
弱った。この歳の女の子特有の、妙にませた空気。
心愛は昔から俺のことが「大好き」だと言ってはばからないのだが、最近はそのアプローチが少し……
いや、かなり過激になってきている。
「ほらほら、お兄ちゃん。レポートばっかり見てないで、心愛のこと見て?」
そう言って、心愛はベッドの上でむくりと起き上がると、わざわざ俺の正面に回り込んできた。
そして、あからさまに不自然な動作で、穿いているワンピースの裾をきゅっと持ち上げる。
「(……また始まった)」
俺は内心でため息をついた。
心愛の必殺技。それは、無自覚(を装った意図的)なお色気攻撃だ。
「これで大人のお兄ちゃんをイチコロにするんだから!」と本気で思っているらしい。
いつもなら、ここで彼女のトレードマークである、あの幼児向け大人気アニメ『マジカル☆キュア(通称マジ☆キュア)』のキャラクターがデカデカとプリントされた、なんとも微笑ましいパンツがお目見えするはずだった。
「ほらっ、お兄ちゃん! どーお?」
得意げにスカートをたくし上げる心愛。
俺は「はいはい、マジ☆キュアね」と、適当にツッコミを入れて終わらせるつもりで、視線を向けた。
——だが、その瞬間。俺の思考はフリーズした。
「……え?」
そこに映っていたのは、いつものカラフルな魔法少女のイラストではなかった。
白地に規則正しく並んだ、小さく真っ赤な果実。
それは、紛れもない『苺パンツ』だった。
「……っ、おい! 何やってんだお前はっ!」
俺は弾かれたように椅子をごとりと鳴らし、慌てて視線をノートパソコンの画面へと戻した。
心臓が妙にドクドクと鳴っている。
いや、断じて変な意味じゃない。これは単なる、想定外の事態に対する生物としての防衛反応だ。
「ふふーん! お兄ちゃん、今お顔が赤くなったでしょ? 動揺してるでしょ!」
背後から、勝ち誇ったような心愛の弾んだ声が聞こえる。
振り返らなくても、彼女がドヤ顔で鼻を高くしているのが容易に想像できた。
「動揺なんかしてない! びっくりしただけだ。なんだよ、その……その柄は!」
「ふふん、気づいちゃった? そう、いつものマジ☆キュアじゃないの。心愛、もう4年生だもん。マジ☆キュアは卒業して、ちょっと大人な『いちごパンツ』にしたんだよ!」
ベッドの上で胸を張り(ない胸をさらに張って)、自慢げに語る心愛。
どうやら彼女なりに「大人の階段」を上ったつもりらしい。
しかし、お小遣いでいちごパンツを買って大学生の男を釣ろうとするその思考回路は、どこからどう見ても大人のそれではない。
子供の背伸びそのものだ。
「お兄ちゃん、いつまでも心愛をお子ちゃま扱いしてると、他の男の子たちに負けちゃうよ? ほらほら、もう一回よく見て?」
「見ない! 戻せ、早くスカートを戻せ!」
背後から忍び寄る、衣類が擦れる微かな音。
いつもなら「はいはい、マジ☆キュア乙」で一蹴できたはずの攻撃が、定番の『いちご柄』に変わっただけで、なぜこうも破壊力を増しているのか。
「……っていうか、なんでいちごなんだよ」
「え? だって、アニメとか漫画で、男の人が一番ドキドキするパンツってこれだって書いてあったもん!」
一体どこの間違った情報源を参考にしたんだ、このJS(女子小学生)は。
「漫画って、お前なぁ……! 変な知識ばっかり仕入れてくるんじゃない!」
俺はついに耐えかねて、椅子ごとくるりと振り返った。もちろん、視線は彼女の顔から絶対に下げないように固定したままだ。
「変じゃないもん! 心愛はいつでも真剣だもん! ほら、お兄ちゃん、そんなに遠くにいないで、もっと近くで見てよ」
そう言って、心愛はベッドからぴょんと飛び降りると、トコトコと俺の足元まで歩み寄ってきた。
そして、あろうことか俺の膝に手を置き、上目遣いでじっと見つめてくる。
「(距離が近い……っ!)」
小学生とはいえ、女の子特有の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
さらに悪いことに、彼女はまだ自分のワンピースの裾を片手で握ったままだ。
視界の端に、どうしてもあの『いちご柄』がチラついてしまう。
俺の脳内で、理性の警報(アラート)が最大音量で鳴り響いていた。
「……心愛。いいか、よーく聞け」
「なーに? 降伏の宣言?」
「違う。お説教だ」
俺は人差し指で心愛の額をぴっと小突いた。
「いいか? 大学生の男の部屋で、そんな風にスカートをめくるもんじゃない。たとえ相手が親戚のお兄ちゃんであろうとな。もしこれが俺じゃなくて他の男だったら、今ごろ大問題になってるぞ」
「むぅ……。他の人の前でやるわけないじゃん。お兄ちゃんだからやってるの!」
心愛は額を押さえながら、不満そうに唇を尖らせた。
「あのね、心愛はもう子供じゃないんだよ? ちゃんと『女の武器』を使って、お兄ちゃんを落としにきてるの。お兄ちゃんがいつまでも他の女の人にうつつを抜かさないように、今のうちからキープしといてあげてるんだからね!」
どこで覚えたんだ、その「キープ」なんていう生々しい単語は。
彼女のまっすぐすぎる(そして激しく間違っている)情熱に、俺は頭が痛くなってきた。
「とにかく! そのいちごパンツは没収……はできないから、早くスカートを戻しなさい。じゃないと、もう二度と部屋に入れてあげないからな」
最終通告を突きつけると、心愛は「ちぇー、お兄ちゃんの分からず屋」と小さく呟き、ようやくスカートの手を離した。
フリルの裾がストンと落ち、危険な果実はようやく隠された。
俺は盛大なため息をつき、ようやく胸を撫で下ろした——のだが。
心愛の『お色気攻撃』が、これで終わるはずもなかった。
「ふぅ……。分かってくれればいいんだ、分かってくれれば」
ようやく一息つき、俺は机の上の冷めたコーヒーに手を伸ばした。
これでひとまず、この部屋の治安と俺の理性は保たれた。心愛も大人しくレポートの邪魔を……。
「なーんてね! はい、次の作戦っ!」
「ぶふっ!?」
安心したのも束の間、心愛は電光石火の勢いで俺の懐に飛び込んできた。
そして、俺の右腕を自分の両腕でぎゅっと抱きしめ、これでもかと密着してくる。
「ふふーん! パンツがダメなら、次は大人の女性の基本、『ボディタッチ』だよ!」
「……っ、心愛! 離れろ!」
「いやだもん。こうやってお兄ちゃんに心愛の『お胸』を押し付けちゃいまーす! どう? ドキドキして、もう心愛から離れられなくなっちゃった?」
どや顔で俺を見上げてくる心愛。
……いや、押し付けちゃいますと言われてもだな。
相手は小学4年生である。悲しいかな、俺の腕に当たっているのは、ただただ柔らかい平坦な感触と、彼女の小さな骨組みだけだ。
「(……うん、全くドキドキしない。むしろ微笑ましすぎて涙が出てくる)」
さっきのいちごパンツの衝撃に比べれば、この自称・お色気ボディタッチはただの「懐っこい小型犬のじゃれつき」でしかなかった。
先ほどの動揺が嘘のように引いていき、俺の心に完全な平穏(と、ちょっとした呆れ)が戻ってくる。
「どう? お兄ちゃん、顔が赤くなってないよ? もっと強く押し付けなきゃダメ?」
「いや、もういい。十分堪能したから離れなさい」
「むぅ、手応えがないなぁ……。あ、そうだ!」
心愛は何かを閃いたように顔を輝かせると、俺の腕を引っ張った。
「これだけ心愛にドキドキさせられたんだから、お兄ちゃん、ご褒美をくれるよね?」
「……は? 誰が誰をドキドキさせたって?」
「いいからいいから! 心愛、がんばって大人の階段上ったから、お腹が空いちゃった。駅前のファミレスで、いちごパフェ奢って!」
満面の笑みで、今度は完全な「子供の顔」になってねだる姪っ子。
俺は天井を見上げ、本日何度目か分からないため息をついた。
結局のところ、彼女の「お色気作戦」の本質はこれだ。
ちょっと背伸びして俺をからかい、最終的には甘えて美味しいものを強請(ねだ)る。
「……分かったよ。レポートもキリが良いし、行ってやるよ」
「やったぁー! さすがお兄ちゃん、大好きっ!」
飛び上がって喜ぶ心愛を見ながら、俺はノートパソコンを閉じた。
マジ☆キュアからいちごパンツへ。
彼女なりに少しずつ成長しているのは確か(方向性は激しく間違っているが)なのだろう。
「(……次はどんな攻撃を仕掛けてくるのやら)」
これから先、彼女が本当に「大人の女性」になっていく過程で、俺の理性がいったい何度試されることになるのか。
想像するだけで少し頭が痛くなりつつも、俺は嬉しそうに手を引いてくる小さな誘惑者と共に、部屋を後にした。


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